坐禅に出逢った後のこと

前回までの日記で、坐禅に出会うまでのことについてを書きました。

 

坐禅に出会った後のことも書きたいと思いながらも、今の僕にはどう言葉にしたらいいのかわからず、その後のことはなかなか書けません。

 

坐禅についてのこと、いつか、言葉にできるときがきたら、書きたいと思っています。それではまたー

坐禅に出会うまで 4

前回、中途半端にわかったようなつもりで、もう自力でやれるとこまでやったつもりになって、あとは流れに任せるしかない、っていう勘違いをして、座る時間も減らしていったってとこまで書きましたので、今日はその続きを書きます。

座る時間を減らして、日々の生活の流れに任せようってテーマで過ごし始めて。。。。非二元系や禅の本を読んでも、内容を寸分違わず理解しているって感覚があり、自分で「いけるとこまでいった」なんて思っちゃっているので、どうしようもないですね。当然、日常生活の中で、困ったな、とか、本当嫌だ!ってことはしっかり出てきます。それに対して、中途半端に知ったような知識でもって対処しようとするもんだから、余計に困ったり悩んだりするわけだけど、それに対しても非二元系の知識でもって、しのいでいくって感じでやってたと思います。自分ではうまくやっているつもりでいながら、実際のところ落ち着きもせず、すっきりもしていない。当然のことだけれど。

そして丁度その頃、仕事でトラブルが2件相次いであり、それの決着がつくまで一年近くゴタゴタしたり、結婚したり子供が生まれたり、と、日々の暮らしが忙しなく、ぬくぬく育った自分のキャパをかなりオーバーしていきました。そして、どんどん気が重くなり、孤立無援で八方塞がりな気分になっていって、よく「帰りたい、」って思ってたな。家にいても、どこにいても。

そんでも、生活があるから仕事を辞めるわけにもいかないので、そんな気持ちで出口のない日々を数年過ごしていったけど、限界だったんですね、ある日の仕事中に過呼吸になり、その日は早退し、暫くお休みをもらえる事になりました。2〜3週間して少し落ち着いた頃に、家族のススメに従って精神科に行って診てもらったら(診てもらう前の問診票の質問への僕の回答は)うつ病でした!!これには驚くと共に、「このままじゃいかん、何とかしなきゃ!」って思いました。今思うと、ちょっと落ち着いた頃に病院に行ったのは、僕にとっては良かったと思います。そうじゃなかったら、「このままじゃいかん!」なんて思えなかったかもしれないって思います。

そんなんで、、、その時、どうやって何とかするのかは、迷う事なく「坐禅しかない」って思いました。で、我流の真似事の坐禅じゃなく、しっかりした人について坐禅をしなきゃ!とネットを探り、あるお寺を発見し、早速そのお寺の坐禅会に参加させて頂きました。

40分間の坐禅を行い、その後2時間ぐらいだったかな?和尚さんのお話&質疑応答がありました。質疑応答で幾つか質問させて頂き、これまで自分がやっていた事は、まったく坐禅になってなかったんだな、という事を知りました。その日、はじめて坐禅に出会った。そんな実感でした。

と、なんか話が長くなったくせに、かなり大雑把な話になりましたが、数年前ようやく坐禅に出会い、修行の入口、門前に立つことができた、と思います。

出会うまでのお話はこれにておしまいです。

坐禅やヨガには試合がない

坐禅にもヨガにも試合がない(ヨガはあったりするらしいけど)。試合がないから、試合の為の練習をすることもない。

ヨガをする人は「ヨガの練習をする」と言う。坐禅をする人から「坐禅の練習する」と言うのを聞いたことがない。

練習の意味を調べてみたら、

【練習】
[名](スル)技能・学問などが上達するように繰り返して習うこと。
デジタル大辞泉の解説より)

ところでアシュタンガヨーガの創始者Shri.K パタビ・ジョイス師という方は、99% Practice 1% Theory とよく言われていたそうです。99%のプラクティスと1%のセオリー。これも調べてみると、、、

practice【名詞】
1【不可算名詞】
a(理論・思想に対して)実行,実践; 実地,実際 (⇔theory).
用例
theory and practice 理論と実際.

2【不可算名詞】
a[具体的には 【可算名詞】] (反復して行なう)練習,けいこ 《★【類語】 ⇒exercise 2》.

(研究社 新英和中辞典より)

practiceを調べたら、theoryも合わせて意味が載っていました。practiceには、練習って意味もありましたが、最初に出てきたのは、実行、実践、実地、実際とのこと。

たかだか言葉のちょっとした違いじゃないか、と言われるかもせれないけれど、言葉を軽視してはいけないと思う。実際のところ言葉は、分かれていないものをきっちり分けて、僕たちを迷わせたりする。前にも書いた呼吸と身体の動きのこともそう。心と身体だってそう。どこが心でどこが身体なのか?

ヨガにも坐禅にも試合がない。いつだってそのときどきの実地、実際があるだけ。そうじゃない?

楽に胸を開こう

今回はヨガのこと。

ヨガには「胸を開く」ポーズがあります。胸を開くポーズで上手く胸が開くと呼吸が心地良く入ってくるし、気持ちも開かれていく様な心地良さがあります。僕にとって、そんな風に心地良い「胸を開く」やり方について書きます。

胸を開く為によく聞くやり方に「肩甲骨を後ろに引く」や「肩甲骨同士を近づける」ってのがあると思いますが、実際にやってみると、どうしても肩や背中に力が入ったり、肩の力は抜けても胸に力が入っていて硬い感じで、なんか不自然な感じがします。

もっとナチュラルに心地良く胸を開きたいんで、なるべく力をかけずやってみましょう。まず立ち姿勢で腕を肩からぶら下げておいときます。で、鼻からゆったり息を吸い込みます(好きな香りを嗅ぐときのように)。そうすると、少し背筋が伸びるっていうか上半身が上方へ向かっていくと思います。と同時に少し胸が開く感じになったと思います。そしてこれもごく僅かですが、腕が外に向かってふわ〜っと動いたかと思います。その動きに乗って、腕を少しだけ開いていきます(肩が左右に広がり、肘の裏の線が正面を向いていき、親指が少し外に向かっていき、体側に向いていた手の平が少し前を向きます。因みに肘や手首は動かさず鎖骨辺りから開かれていく感じです)。

って具合です。この腕の動きは腕の外旋と言われるものですが、吸う息の身体の動きに乗っかってほんのり腕を外旋させる。すると自然に肩甲骨同士が背中で近づき、力みなく胸が開いていくと思います。猫、コブラ、英雄2などなど、胸を開くポーズ試してみて下さい🎵

それでは。

坐禅に出会うまで 3

前回、自宅で坐禅みたいなことを始めるとこまで書いたので、その続きを書きます。

坐禅の語録やラマナマハルシ系の本を読んだりしながら、独りで坐禅みたいなことを続けていきました(当時、自分では「坐禅みたいなこと」ではなく坐禅をしていたつもりでした)。本を読んだり足組んで座って、ってやる中で、本に書いてあることもよくわかるし、座っていてもそれを体現できているって実感もあったりするし、自分ってのはこの身体の中にいる存在じゃない、って思いを持ちながら、日々の暮らしの中でエブリシングイズオーケーって感じにはならなかった。そういう気分になるときもあるけど、いつもそうってわけにはいかなかった。なので、相変わらずネットや本で何かいい方法はないか?と探し続けていました。そうこうするうち、ある西洋人によるラマナマハルシの「私は誰か?」に対する修行メソッドのような本に出会いました。本屋さんでパラパラっと立ち読んだ瞬間に「これはヤバい!」と思った(笑)。この方法をしっかりと修行したら、今一歩すっきりしない自分の境涯も悟りの境涯に定住できる!って感じなことを思い、それからは坐禅みたいなことではなく、そのメソッドに没頭し始めました。独りで自宅でやるだけじゃなくて、そのメソッドのリトリート(修行合宿)にも頻繁に参加しました。

リトリートはとても素晴らしい体験で、こうやって修行を続けていけば、あるとき何もかもがはっきりしてオールOKになるときが来るに違いない!と思い、リトリート中もよく足組んで座ったし、家でもよく座りました。一年ちょっとそのメソッドのワークを続けたかな?やっぱりどうしても、同じようなとこで行き詰まっちゃうんですよね。どうやっても「自分」っていうのが残ったまんまで手詰まりって感じ。「自分」が頑張っちゃってるんだから、どうしたって「自分」が残っちゃうっていう。で、どうしようもなく、天にお任せするよりないな、なんて思って、流れにお任せしようって感じになり、座ったりする時間も減らしていきました。

ダラダラと中々終わらないや。続きはまた今度です。

身体の声を聞くって

今日は坐禅との出会いの話はお休みして、ちょっとヨガについて書きます。

ヨガでは、「身体の声を聞く」とか「〜(体の部位)に意識を向ける」という言葉を耳にしますが、どうもしっくりきません。僕は身体が硬いものですから、アーサナ(ヨガのポーズ)をとるとあちこち「痛っ!」ってなったり、ハードコアな姿勢で静止したりすると「うぐー!」ってなりやすいです。

で、そのとき身体の様子がどうなってるのかって言うと、身体の声を聞くまでもなく、またどこかの部位を殊更意識するまでもなく、身体は、痛みのあるその場所で身体自身が痛みを覚知してるんですよね。極端な例ですが、例えば熱い鍋を触ってしまったりしたときなんかも「身体の声を聞く」って言う手続きなしで、手自身が鍋を触ったその部分の刺激を覚知しているんですよね。

で、痛いや熱いの場合は極端な場合だから特別だよって思うかもしれませんが、よくよく身体を観ていくと、心地良い伸びをしたときなんかも、伸びている部分自体が、伸びながらその伸びを直に覚知しています。

きっと今僕が書いたような事を示すのに「身体の声を聞く」「伸びているところに意識を向ける」って言っていると思うのですが、その言葉を文字通り受け取ってしまうと、身体の声を身体が直接覚知するんではなく、〈自分〉っていう意識が身体からの情報を聞いたり感じたりするって言う風にして、実際に起こっている時と場所から(僅かですが)離れてしまっているような感覚になると思います。身体の声があり、身体の声を聞く者があるっていう、架空の二分裂が起こりやすい言葉じゃないかな?と思います。

なんかわかりやすくてしっくりくる言葉があるといいんだけど、実際の動きってのは言葉じゃない世界の事だから難しいですね。このことに限らず言葉に惑わされないよう用心すべしです。

坐禅に出会うまで 2

前回の続きを書きます。

ラマナマハルシの本を読んで以降、急激に超能力を手に入れようという気がなくなり、ほんとうの自己として在ること、ってことがテーマになった。

アドバイタ系の本を読み始めるとすぐに不思議な感覚になり、「あー、これが〈それ〉で、こうやっていればいいんだな」なんて感じで、自分なりにアレコレとやってみました。当時、アパートに一人暮らしで、トイレのドアを閉めると完全な暗闇で、音もほとんどなく、その中で一体自分は何なのか?ってやったりもしました。

光が全くないと、どんだけ時間が経っても目は何も映さないんだなー、と知りました。少しでも光があれば、徐々に目が慣れてきて暗いなりにも何か見えてくるんですが、光がないと本当に全然見えない。目の前で手を動かしても、手の動きは全く見えない。そこにあるのは手自身の動きの感覚だけ。動かずジッとしていると動きの感覚もなく、真っ暗で音もなく、すごく不思議な感じでした。そして、そうやって過ごした後、外へ出ると身体がないみたいに軽くなって心地良かった。

けれど、本を読んだり、トイレに籠ったり、森の中で過ごしたり、色々やってみて何かいい感じになるものの決定的にスッキリすることはなく、何かいい方法はないかとネットや本を探し続けていた。そうこうするうちに、あるとき、坐禅ばかりをしているお坊さんの語録集を読んで、「坐禅をやってみよう」という気になり、自宅で坐禅の真似事をし始めた。これが多分、坐禅と出会う為の二歩目だったんかな。

なかなか終わらんな。とりあえず、今日はこれでおしまいにします。