坐禅に出会うまで
今日は坐禅のことについて書いてみようと思う。
今から15年ぐらい前、働くのが嫌で、何とかならないかとアレコレ本を読む中で、瞑想をして念力?超能力?を身につければ楽々生きていけるんじゃないのか⁉なんて思って、自宅で足を組んで座り始めた。今振り返ると、それが坐禅に出会う為の初めの一歩だったんだと思う。
初めて足を組んでやってみたときは、5分もジッと座っていられんかったと思う。それでも、なんとか超能力の為に座らなきゃいかんと思っていたんで(笑)、瞑想用の音楽なんかをかけたりしながらやってたな。そうやって自分なりに試行錯誤するうちに、足を組んで座る行為にも少しずつ慣れてきて、ジッと座っていられる時間も徐々に長くなっていった。だんだん、多幸感や全能感に溢れた様な気になったりして、瞑想が楽しくなっていきました。けど、超能力はなかなか得られませんでした(笑)。
それでもそうして瞑想してるうちに、超能力を身に付けなくても、どんな境遇でも幸せに生きられたら、その方が幸せじゃね?って考えに移っていき、悟れば幸せになるはず!って考えて、超能力から悟りへと瞑想の方向性をシフトしていった。悟りが何かも知らないで(笑)。
で、悟りについてを、またアレコレ本を読んだり探す中、本屋さんで平積みになっていた、少し微笑んだおじいちゃんが表紙になっている本と出会った。そのおじいちゃんの微笑みと眼差しに惹かれてパラパラっとめくってみたら、ヤバかった。ちょっと読んだだけで持ってかれたです。あー、これが本当で、これが目指すとこだわ!って確信したのが、ラマナマハルシの本でした。
それから、アドバイタ系の本を読みあさる。って言っても今ほど一杯あるわけじゃないので、ラマナ、プンジャジ、ガンガジ、ニサルガダッタマハラジを繰り返し読んだなー。
長くなってきたので、続きはまた今度。それでは!
呼吸と動きと太陽礼拝
ヨガでは、よく「呼吸に身体の動きを連動させる」みたいな言葉を見たり聞いたりします。このことは、言葉としても、実際の自分自身の身体の動きとしても、いまいちピンとこず、しっくりいってなかった。
最近、前から気になっていた「弓と禅」という本を読んで、そのしっくりいってなかった事が一気に瓦解した。因みに「弓と禅」は、ドイツ人哲学者が記した日本での弓道稽古の記録の本で、著者とお師匠さんのやり取りや著者自身の試行錯誤の様子が綴られています。
「おお、そうか、そうだ!」ってなったところの一部を書き出してみます。
〈Ⅲ稽古の第一段階−引き分けと呼吸法 P83〉より
弓を引き分け、射るという一事は、弓を執る−矢を番える−弓を打ち越し−引き分け−一杯に引き絞って満を持す−射を発す−に分節された。これらは、息を吸うことにより始められ、押し下げられた息を保つことによって担われ、息を吐くことによって完結する。
引用おしまい。
「息を吸うことにより始められ」る。そうだったんだ。動きは、呼吸により始まっている。
息を吸うとお腹が膨らみ、胸も膨らみ&開き、背筋が伸びていく。吐くと胸は閉じていき、お腹もへこんでいく。呼吸に身体を連動させるわけじゃなくって、呼吸と身体の動きは、連動している。もっと言えば、呼吸っていうのは身体の動きとは別ものではなく、身体の動きそのものだ。
早速太陽礼拝をしてみると、吸う息で合掌を頭上に持ち上げる動きは、息を吸うことにより体幹部分は上方へ向かい始めているので、それに両手を添えていく。次の吐く息で前屈するときも、息を吐くことでお腹がへこみ体幹部分の前屈が始まっている。以降同様にして、呼吸することで身体は次の動きへ向かっているので、体幹部分のその素直な身体の動きに四肢を添えていくって風。
呼吸に身体を連動させるんじゃなくて、呼吸=身体の動き。初動を、呼吸による体幹部分の動きに任せていくことで、とてもスムーズに身体が動いていった。
その発見以降、太陽礼拝ばっかりやっているこの頃。太陽礼拝めっちゃ楽しい🎵
僕が読んだ「弓と禅」は新訳のほうです。古いやつの方が評判良さそうなので、古いやつも読んでみよかな。