身体の声を聞くって

今日は坐禅との出会いの話はお休みして、ちょっとヨガについて書きます。

ヨガでは、「身体の声を聞く」とか「〜(体の部位)に意識を向ける」という言葉を耳にしますが、どうもしっくりきません。僕は身体が硬いものですから、アーサナ(ヨガのポーズ)をとるとあちこち「痛っ!」ってなったり、ハードコアな姿勢で静止したりすると「うぐー!」ってなりやすいです。

で、そのとき身体の様子がどうなってるのかって言うと、身体の声を聞くまでもなく、またどこかの部位を殊更意識するまでもなく、身体は、痛みのあるその場所で身体自身が痛みを覚知してるんですよね。極端な例ですが、例えば熱い鍋を触ってしまったりしたときなんかも「身体の声を聞く」って言う手続きなしで、手自身が鍋を触ったその部分の刺激を覚知しているんですよね。

で、痛いや熱いの場合は極端な場合だから特別だよって思うかもしれませんが、よくよく身体を観ていくと、心地良い伸びをしたときなんかも、伸びている部分自体が、伸びながらその伸びを直に覚知しています。

きっと今僕が書いたような事を示すのに「身体の声を聞く」「伸びているところに意識を向ける」って言っていると思うのですが、その言葉を文字通り受け取ってしまうと、身体の声を身体が直接覚知するんではなく、〈自分〉っていう意識が身体からの情報を聞いたり感じたりするって言う風にして、実際に起こっている時と場所から(僅かですが)離れてしまっているような感覚になると思います。身体の声があり、身体の声を聞く者があるっていう、架空の二分裂が起こりやすい言葉じゃないかな?と思います。

なんかわかりやすくてしっくりくる言葉があるといいんだけど、実際の動きってのは言葉じゃない世界の事だから難しいですね。このことに限らず言葉に惑わされないよう用心すべしです。